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今日は何の日・・・

軍艦マーチが神戸沖の観艦式で初めて演奏された。

http://www.youtube.com/watch?v=q3RcXj19k54&list=PL293C7F8454CD22F6&index=7&feature=plpp_video

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あんぱん誕生

「ねずきちの ひとりごと」より転載

パンの中に小豆餡が詰まった「あんぱん」は、菓子パンの定番として、日本人なら誰もが知っていて、誰のお口にも合う美味しいパンです。

この「あんぱん」、正真正銘、日本生まれの日本育ちなら、パンも、あんも、日本流なのです。

中のアンコも純和製なら、外側のパンも、日本人の口に合うように発明された日本独特のパンです。

普通の西洋式パンは、ビールと同じホップを用いたパン酵母を使って作られますのですが、あんぱんは、酵母ではなく、日本酒酵母の麹を使って作られるのです。

これは、パン作りに和菓子の饅頭の皮の製法を取りいれたもので、そのためパン自体がアンコの味によく合い、とってもおいしくなる。

この「あんぱん」が日本で最初に発売されたのは、明治7(1874)年のことです。

発明したのは、木村安兵衛(きむらやすべえ)です。

木村安兵衛は、もともと茨城県牛久市生まれの武士です。
ところがお家が幕府側だったため、明治維新後、職を解かれて失業者になってしまう。

このときすでに安兵衛、55歳です。
当時としては結婚の遅かった安兵衛は、この時点で子供たちはまだ子供です。

生活に困った安兵衛は、本家筋を頼って江戸に出た。

ようやく決まった職業が、「東京府職業授産所」の職員です。
名称は「授産所」だけれど、女性が子を産むお産ではありません。
当時、巷にあふれている失業した元武士たちに職を世話したり、手に職をつけさせるための職業訓練をしたりするところです。

いまでいったら職安と職業訓練所が合体したような民営の施設です。

安兵衛はそこで事務職を勤めるのだけれど、ここでたまたま、長崎でオランダ人宅のコックを務めたという梅吉という人物と出会い、「パン」というものの存在を知ります。

これからの日本は、文明開化の時代になる。

そう考えた安兵衛は、明治2(1869)年、妻のわずかな蓄えを元手にして、いまの新橋駅あたりにパン屋「文英堂」を開きます。

当時、新橋のあたりは、人通りの多い一大繁華街です。

文英堂の「文」は、妻の名前の「ぶん」、「英」は、息子の名前の「英三郎」からとったものです。

場所もいい、店の名前もいい。商品も画期的です。
これで成功間違いなし!と思ったのもつかの間、開店間もない「文英堂」は、この年の大火で、全焼してしまいます。

あっというまに安兵衛一家は全てを失い、無一文です。

年齢も年齢です。
もはや、後戻りができる年齢ではない。

息子の英三郎も、パンの作り方を覚えてくれて、なんとかしてパン屋を再開したいという。

安兵衛は、落ち込む心を振り切って、ようやく銀座の煉瓦街に小さなお店を借ります。

いまでこそ銀座煉瓦街といえば大繁華街ですが、明治3年当時の煉瓦街は、一種の倉庫街のようなところで、人通りもまばらで、閑散としたところです。

場所がよくないのです。
商品を作って店頭に並べておけば売れるという繁華街のお店ではありません。

立地条件の悪いところでパンを作って売るとなると、そうとうパンそのものに工夫を凝らしたものを発売しなければ売れません。

安兵衛は、息子の英三郎とともに、商号を「木村屋」と変え、日夜パン作りに励みます。

まずは、なんとかしてふっくらして柔らかなパンを作ろうとした。
これにはなんとか成功します。
食べたお客さんは、誰もがおいしいと喜んでくれた。

ところが、当時の日本には、パンを食べる習慣がありません。
習慣のない日本で、もっとみんなが好きになってくれるパンにするためにはどうしたらいいか。

貧窮のどん底の中で、安兵衛は日夜、いろいろな工夫を試みます。

そして明治7(1874)年、安兵衛は、パンの製法そのものを、ホップではなく、麹(こうじ)を使った和風テイストのパンにする。
そして、和風パンの中に、小豆あんを入れた、「あんぱん」を開発するのです。

これまで、味わったことのない新しい食感です。
安兵衛は、このパンに「あんぱん」と名前をつける。

ある日、山岡鉄舟がこの店にやってきます。
木村安兵衛のあんぱんは、単に西洋のパンを模倣したものではなく、日本に古くからある和菓子の製法を取り入れ、西洋と日本をブレンドした新しい味わいのパンです。

鉄舟は、この安兵衛の「あんぱん」に感動します。

そして、明治天皇が水戸家へ行幸される折、侍従となった山岡鉄舟は、陛下に酒種あんぱんを献上したのです。

明治天皇は、ご試食されたあんぱんが、とてもお気に召し、皇后陛下は特に愛され、引続き上納の栄を賜ることになります。

安兵衛の木村屋は、なんと宮中御用商に加わることになったのです。

この話は瞬く間に全国に広がり、木村屋のあんぱんは、全国一の大ヒット商品となります。

山岡鉄舟は「木村家」屋号の大看板を揮毫してくれた。




さらに明治10(1877)年、西南戦争が起こると、陸軍が軍用食としてパンを採用し、木村屋から大量のパンを仕入れます。

こうして木村安兵衛は、いまに続く銀座・木村屋総本店の基礎を築き上げたのです。

ずっと武家として過ごしてきた安兵衛が、50歳を過ぎて失業者となり、親戚を頼って江戸に出て、そこでパンと巡り合う。

やっとのことでパン作りの技術を習得して、わずかばかりの女房の蓄えで、やっと小さな店を持つ。

ところが、その店が、開店間もないうちに焼失して、一文無し。

なにもかもがなくなって、もはや一家心中するしかない、というところまで追いつめられて、それでもなお、子や妻のために生きなければと、奮起して、まるで人通りのない、倉庫街の裏道に、店を借りる。

パンを作っては、行商し、すこしでも売れるようにと、歩きに歩いてくたびれきったその足で、毎夜、夜半過ぎまで「おいしいパン」をあきらめずに研究し続ける。

そうしてやっと出来上がったのが、「あんぱん」です。

でも、安兵衛は、どこまでも明るく謙虚でいたから、山岡鉄舟と出会うことができた。

いくらパンが美味しくても、木村安兵衛の人格に問題があれば、鉄舟は明治天皇にあんぱんを献上などしないからです。

安兵衛は、貧乏のどん底にいて、パンだけでなく、きっと心も鍛えたのではないかと思うのです。

いま、日本はたいへんな経済苦の中にいます。

ボーっとしているのは、民主党の議員と、倒産寸前にありながら高給を食んでいるマスコミの社員とパチンコ屋くらいなものです。

けれど、こうした苦しい時こそ、日本人の真価が発揮される。

どんなに苦しくても、明るく朗らかに、未来を信じて戦う。
それが日本人です。

外地で亡くなった、英霊のみなさん方も、テレビや映画の戦記物では、なにやら苦しく暗い姿に日本軍が描かれます。

たしかに戦況は厳しく、食い物もなく、怪我しても治療薬もなかった。

けれど、みんななぜか明るかったのです。
戦闘が長く続く壕の中で、髭面となった顔で、歯をむき出して冗談を言い合って笑いあった。
互いに励ましあった。
苦しいから、つらいから、余計に笑顔をお互いに大事にした。

だってそうじゃないですか。
たしかに戦線は、つらく苦しい戦いだった。
もちろんそうでしょう。

でもそれを補って余りあるほど、軍隊は明るくてみんな楽しかった。
中にはイヤな奴もいたけれど、それでもほとんどの奴らは、みんないいやつだった。

いまの会社や部活だってそうじゃないですか。
ときどきイヤな先輩とかもいるけれど、同僚たちはみんなどっかしっかいいところをもっている。

そういう連中と、命のやり取りをする最前線で一緒に戦ったから、戦友なんです。
だから、戦後65年たったって、みんな毎年、会うのが楽しみなんです。
戦地がいやでいやでたまらないところだったら、戦友会があったって、誰も来やしません。

戦後、軍隊の誹謗中傷、悪口の限りを尽くしたインテリなんかもいるけれど、そういう奴らは、たくさんいるようでいて、実はほんの少数でしかない。
だいたい、他人の悪口や非難中傷ばかりするような奴は、軍隊時代もみんなから鼻つまみです。

で、戦争が終わったら、まるで天下をとったみたいに、戦友や上官たちの悪口を言い募った。
そんなのは、ごく一部の、見下げ果てた連中でしかない。

辛く苦しい戦いさえも、明るく楽しい和の場にしてしまう。
そういう底抜けの明るさや思いやりが、誰にでもある。

日本人というのは、そういう民族です。

天は、木村安兵衛に、あんぱんという報酬を与えました。
木村屋総本店は、いまも老舗として立派に営業しています。

けれど、その背景には、明治維新でなにもかも失い、ようやく出したお店まで火事で失い、年齢も、当時としてはもう、とっくに引退しているような年齢で、それでもがんばりぬいた。

苦労に苦労を重ねても、明るさや家族への愛を忘れず、けっしてくじけたり、いじけたりしなかった。
安兵衛が、そういう心がけの男だから、鉄舟が、見出した。
そして未来が拓けた。

日本は、いまほんとうに苦境です。

それでも、めげず、くじけず、明るく、清く、せいいっぱい働き、未来を信じて生きる日本人。

いやあ、やっぱり、日本人て、いいですね^^v
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【朝鮮進駐軍】~あの団体の正体

【朝鮮進駐軍】~あの団体の正体

http://www.youtube.com/watch?v=bAjM7fw1Ais&feature=youtu.be
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4月28日は主権回復記念日です

昭和27年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、我が国は約7年に及ぶGHQの占領から解放され主権を回復し独立国家となりました。

占領統治の間、国旗掲揚、国歌斉唱が禁止されていましたが、この講和条約が発効して後、堂々と国旗日の丸を掲揚し、国歌君が代を斉唱できるようになりました。

昭和天皇は我が国が独立した折、

 風さゆる み冬は過ぎて
 待ちに待ちし
 八重桜咲く 春となりけり
と御製を詠まれました。

日本国民挙って主権回復記念日をお祝いし、国旗に向かって我が国の更なる繁栄と真の自主独立を高らかに誓い、願い、堂々と国旗を掲揚しましょう。
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東京都尖閣諸島寄付金

拡散希望!

この寄附金は、尖閣諸島の購入・活用のためにあてさせていただきます,

http://www.chijihon.metro.tokyo.jp/senkaku.htm
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三原じゅん子 参議院議員よりお願い 日本海を守ろう!

三原議員HPより
http://ameblo.jp/juncomihara/entry-11233861154.html

日本海を守ろう!

韓国側の請願により米国の教科書に記載されている「日本海」の呼称が「東海」に変更されようとしています。

日本海の名称を守るべく署名活動にご協力ください。

このブログ欄の上に詳細が掲載されております。(トップページかな)

クリックして頂ければご理解頂けると思います。
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【超拡散希望】5/24〆切 TPP断固反対!!ホワイトハウスに2万5千の署名を送ろう!

TPP協議までもう時間がありません!!
署名方法→http://jump.cx/whitehouse 
ホワイトハウス署名サイト→http://bit.ly/NOTPP4JP 
また、TPP反対を主張する議員や政治家のツイッターやフェイスブックにこれらの活動を拡散するのが、目標達成の鍵だと思います。「東海」表記を止めさせる署名数が爆発的に増えたのは、片山議員や安倍元首相が拡散してくださった後です。

日本がTPP参加協議に入るまでの時間はほとんどありません。どうか拡散&署名の協力をお願いします。 .
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靖国神社の苗木と緑の連隊長・・・吉松喜三大佐

「ねずきちの ひとりごと」より転載


 「緑の連隊長」と呼ばれた方がいます。お名前を吉松喜三氏といいます。大正四(一九一五)年、佐賀県のお生まれで、終戦時の階級は陸軍大佐でした。
 吉松氏は、大正六(一九一七)年に陸軍士官学校を第二九期で卒業されています。開戦に先立つ昭和十六(一九四一)年10月に大佐となり、昭和十八(一九四三)年四月からは、帝国陸軍機動歩兵第三連隊長として活躍されています。昭和二二(一九四七)年に支那から復員され、昭和六〇(一九八五)年に九〇歳でお亡くなりになりました。

 開戦間近い昭和十五(一九四〇)年のことです。吉松大佐は戦闘中に腹部に重傷を負ってしまいました。そして後方の野戦病院に送られ、療養をされたのですが、そのとき、ひとつのひらめきを得ます。
療養中のベッドからふと窓の外を見たとき、隣接する洋館の中庭で、賛美歌を歌いながら緑の木立の中を散策する修道女達の姿が目に飛び込んできたのです。

 昭和十八年、機動歩兵第三連隊長に就任した吉松大佐は、そのひらめきを、連隊の仲間たちに話します。
 「支那は、際限のない砂と黄土の大地だ。その大地を、戦争はさらに破壊する。けれど自分たちは、興亜を願う皇軍兵士だ。日本軍の通ったあとに、草木も枯れるなどと言われるようなことはあってはならないのではないか。そうだ。緑だ。緑の木こそ人の心を安らかにする。みんなで植樹をしよう。自分は、植樹によって荒んだ兵隊達の心に安らぎを与えたい。そして散華した敵味方の将兵の御霊を弔いたいのだ。樹木の少ない支那の地に、沢山の苗木を植えて繁らせて、住民を喜ばせようではないか。」

 各大隊ごとの目標も決まりました。「各大隊ごとに50万本の植樹をする」というものです。いち大隊がおよそ一〇〇〇人ですから、ひとりあたり500本の植樹をする、というとほうもない話です。
軍の命令にいちいち説明はありません。「何だい? 今度の連隊長は植木屋のせがれかい?」兵たちの中には、最初、そんな文句を言う者もいたそうです。
 実際、ひとくちに植樹といっても、そんな簡単なものではないのです。そもそも支那大陸は、風土が日本よりはるかに厳しい。樹一本植えるにも、各大隊ごとに営庭などに挿し木の畑を作り、朝晩、水をやって苗木を作らなきゃならないし、苗木には毎日水をやってちゃんと育て、植樹したあとも、根付かせるまで、毎日世話をやかなきゃならない。たいへんな労力のいることなのです。

 しかし吉松大佐の信念はゆるぎません。兵たちからしたら、不承不承だったかもしれないけれど、命令は実行された。そしてある朝、明るい陽ざしのなかに小さな若葉が苗木からふくのを見たとき、隊員たちから、自然と万歳の声があがります。
こうなるとみんなの気持ちに弾みがつく。

第三連隊は、サラチ郊外の駅近くで、早々に50万本植樹を達成しました。
第一大隊は、これを記念して、ここに「興亜植樹の森記念の石碑」を建てます。
モンゴルに近い包頭(ほうとう)市では、現地の支那人のために、連隊で興亜植樹公園を築きました。そこには、内地の桜と、ポプラの苗木を1万本植えた。小さな富士山も作った。池もめぐらし、兵隊や現地の人たちが釣りまでも楽しめるようにします。さらに子供たちのために、小さな動物園も作ってあげた。

第三連隊は、植樹を意義づけようと、「興亜植樹の歌」が作られました。吉松隊長は喜び、これを部隊歌とした。そしてみんなで軍歌と共に歌いました。連隊の団結と興亜への願いをこの歌に託したのです。

♪雪に嵐に打ち勝ちて
 四方にひろがる深緑
 西風いかにすさぶとも
 われに平和の木陰あり

 木々の緑は、乾いた黄土のなかに埋もれてしまう将兵たちの心や、地域の住民たちの心に、新鮮でやわらかい心を呼び覚ましたそうです。敵軍との小ぜりあいは毎日続いたけれど、砂漠の乾燥した風景が、いつしか緑豊かな大地に変わって行く。そこに感動がある。
第三連隊の戦闘は、連日続きました。連戦連勝です。そして連隊が通りすぎた後には、必ず木が植えられました。その木々が、花を咲かせ、木陰をつくる。吉松大佐の部隊は戦闘を休むことはあっても、植樹を休んだことは、一日もなかったそうです。

 昭和十九年の春のことです。吉松大佐の第三連隊は河南作戦に転進しました。みんなで大きな声で歌うのは、もちろん部隊歌の「興亜植樹の歌」です。洛陽攻略戦は壮絶をきわめました。多くの戦友の命が失われた。その中で、第四中隊長であった西宮中尉は、「ああ、安北の灯がみえる」と呟いて息絶えました。安北は、包頭地区警備の最前線にある街です。連隊がもっとも長く駐屯した砂漠の町であり、連隊の隊員たちが、住民らと協力あって、緑の街づくりに励んだ町でもあった。安北は、ほどなくして緑の町となり、夕暮れ時には、ここが戦場かと思われるほど緑豊かで、明るく静かな灯りに飾られる町になっていたのです。西宮中尉は、その安北の明かりが見えると言って、こときれた。

 西宮中尉の最後の言葉は、全軍に広がりました。
「そうだ。俺たちは、あの安北の緑を支那全土に広げるんだ」
「そうだ、俺たちは、平和な町を建設するために戦っているんだ」
西宮中尉の言葉は、全軍の将兵を元気づけます。

 洛陽の攻略戦は終わりました。戦闘集団は、その日から植樹の軍団に変わります。鉄砲をシャベルに、銃剣を鍬に持ち替え、「興亜植樹の歌」を合唱しながら、せっせと水をまき、種をまいた。
そのことは、何よりも将兵たちの心の救いになったそうです。荒涼とした大地の中で、彼らは懸命に自分たちの心の泉を築いたのです。

 第三聯隊は連戦連勝でした。ですから昭和二〇年八月十五日がきた時、吉松連隊長も、全隊員も、「降伏」ということをどうしても信じることができなかったそうです。

 戦争が終わったあと、第三連隊も、全員捕虜となりました。そして最初のうちは道路修復工事をさせられていた。ところが昭和二一年二月、中共軍から喜ばしいニュースが届けられます。もと敵将の劉峙(りゅうじ)上将から直接、吉松連隊長指名で、「植樹隊」の編成を命じてきたのです。
「ざまあみろ、敵の大将も、やっぱりオレたちのこと知ってたんだ!」
なにが「ざまあみろ」なのかわからないけれど、隊長を中心に隊員たちはこれを聞いて抱き合って喜んだそうです。そしてなぜか、彼らは互いに照れるほど涙を流した。

 植樹がはじまりました。戦火で荒れた大地に小さな緑の芽が、そっと芽吹きます。道路工夫から植木屋に変わった彼らは、敗残の日本軍を代表するつもりで植樹をつづけました。
まもなく感謝状が吉松連隊長に届けられました。終戦で戦犯になった元将校の多い中で、敵将から「感謝状」をもらったのは、おそらく第三連隊の吉松喜三大佐ただひとりです。
この感謝状を届けてきた支那人将校は、次のように言いました。
「実は、勲章を贈る話も出たのです。ほとんど決まりかけていたのですが、日中国交の回復していない時に勲章は考えものだということになって、残念ながらとりやめになったのです。」
この話が部下に伝わったとき、部隊のみんなが言ったそうです。
「いらねえよ。金ピカの勲章なんかいらねえよ。隊長さんの勲章はこれだよ。この可愛らしく、ちょっと芽をだした柳の緑さ。これ以上の勲章があるもんか。」
不敗の第三連隊の隊員たちにとって、それがなによりの心の勲章でした。

 日本に帰国するとき、中共軍は、先の「感謝状」の他に、建国の父「孫文の肖像画」と、吉松隊長以下、全員が無事に日本に帰国できるようにと、専用の通行手形まで出してくれました。おかげで吉松連隊長とその部下たちは、途中でトラブルに遭うこともなく、全員無事に日本に帰国することができました。

 こうして昭和二二年暮れ、吉松喜三氏は日本の土を踏みました。けれど、ようやく日本に帰国した吉松氏を迎えたのは「公職追放」の四文字です。苦しい生活が続きます。けれどこの頃の吉松氏は、「死んだ部下の遺族と連絡を取り、いつか必ず慰霊祭を行いたい。そのために生き抜くんだ」とそれだけを思って日々を耐え忍んだといいます。

 そして、旧部下の消息の把握のためや、遺族扶助料問題や遺族の調査など、吉松氏は日夜、地道な活動をつづけました。吉松氏が、公職追放を解かれたのは、ようやく昭和三〇年の春になってのことです。そしてやっとのことで、念願の慰霊祭を靖国神社で催せたのが、昭和三四年のことです。

 その日、吉松隊長は、集まった戦友らとともに、靖国神社境内の隅に記念に桜の木を二本植えたそうです。
その桜は、吉松氏が最初の鍬を入れました。境内の固く踏みしめられた土を掘り起こそうとしたとき、突然、吉松氏の心の中に、支那の包頭(ほうとう)の町の姿と、宣昌の野戦病院で見た修道女たちの歌声がよみがえったそうです。
そして自分の内部に、何かが萌え出てくるのを感じた。それは吉松隊長が長いこと忘れていたものです。
吉松氏は、はっと気がつきました。
「そうだ、戦没者をなぐさめるために、靖国神社の境内にある樹々の実から苗木を育て、それを遺族に送ろう」

 さっそく吉松隊長は神社の庶務課長と相談しました。とりあえず参道にある銀杏の実でやってみようということになった。銀杏は靖国の主木です。樹齢も二百年を越すほど長い。参道の両脇にたくさん植わっています。銀杏は天空にそびえる大樹となる。吉松元連隊長は、神社当局の好意で、境内の一角の瓦礫の空地を借りることができました。さっそく整地にとりかかった。そこに銀杏の実を植え、苗を育てるのです。

 彼は、たったひとりで靖国神社の銀杏の実を拾い集めました。けれど、やってみると、以外にこれがたいへんなことだった。参道に落ちている銀杏の実を拾う。それだのことが、そのころはたいへんだった。なぜかというと、当時の日本はまだ貧しく、神社の銀杏の実を拾って、食べ物のギンナンの実として売る人たちがいたのです。日中になると、銀杏の実はひとつ残らず持っていかれてしまう。

 吉松氏は、実を拾い集めるために毎朝、中野から午前四時七分発の一番電車で靖国に出かけました。そしてまだ暗い中を、懐中電灯を頼りに、合計1400個の実を拾い集めました。
当時を振り返って吉松隊長は語ります。

「ひとりぼっちで玉砂利を踏んで拾っていると、ふと、ひとつひとつの実が、国のために死んだ人たちの魂が宿っているような気がしましてね。この実を育てて大木にしたら、その木にその人たちの魂が戻ってきて、宿ってくれるのではないだろうかって。
そう思うと、もしやこの銀杏の実や苗を、ふるさとの土地で育ててもらったら、これこそ遺骨の奉還になるのではないか。どんなに戦が惨列をきわめても、部下の遺骨を拾って遺族にお渡しするのは、指揮官としての私の義務ではないか。
こんな風に考えてまいりますと、不意に希望と光明がどこからともなく湧いてきましてね・・・」
そう語る老隊長の眼には、涙が浮かんでいたそうです。戦時中、外地で亡くなられた兵隊さんたちの遺骨は、遺族のもとに渡されました。しかしその遺骨の中味は「英霊」と書いた紙一枚というのがほとんどだったのです。

 吉松氏の靖国神社での銀杏の実拾いと苗木の育成は、その日からずっと日課になりました。くる日もくる日も。そしてくる年もくる年も。
やがて慰霊植樹は、日本国内から、当時まだ米国領だった沖縄、ベトナムのサイゴン、懐かしの地である中国の安北、包頭付近までひろがり、苗木たちは大切に保護されて送られていきました。

 昭和三七年の春、「沖縄の忠霊塔のそばにまいた銀杏の実が、十個のうち七個まで芽を出し、今では15センチ以上に伸びています」という嬉しい便りが、吉松氏のもとに届けられました。そしてこれと前後して、吉松氏のもとに支那の内蒙古安北県の人民委員会から公文書が届きました。

「あなたの植えた木が6メートルほどに伸び、並木となって青々と茂っています。私たちの友好が幾山河を越え心と心がつながり、世界平和が実現されますように。」
吉松氏には、その並木の木々の一本一本に、思い出があります。
苗をみんなで育てたときのこと。
接ぎ木したときのこと。
植樹したときのこと。
仲間たちの笑顔。
掛け声。明るい笑い声。
みんなで歌った「興亜植樹の歌」の歌声。
ひとりひとりの戦友たちの顔が浮かびます。
仲間たちの思いが、いまも生きて、並木となっているのです。
「貴様たちに会う時の、いい土産話ができたよ」吉松隊長は、その手紙を握りしめ、ひとり男泣きに泣いたそうです。

 また、吉松氏のもとには、戦争未亡人からの礼状も届けられました。
「先日、靖国神社で初めてお会いしましたあなた様より、いちょうの鉢植えをいただきまして、まことにありがとうございました。子供たちと話しましたところ、長く大切に育てるため「父の木」と命名いたし、この樹を父と思い、大切に大切にいたすことといたしました。これもみな、あなた様のお導きの賜物でございます。」

 吉松氏は言います。
「苦しいことばかりでした。経済的にまいりかけたこともたびたびあります。正直いって一銭にもならないのに・・・そう思って気分的に滅入ってしまいまして・・・でも、歯を食いしばって、続けてきました。
それでよかった。銀杏だけだったのが、今は桜やとち、楓、すっかり園芸家になってしまいました。最近は神社のご好意で、一般の人にもお分けできるようにしていただきましたし。
 今ですか?
苗木一本につき百円の志をいただいております。
亡くなった方の霊をお慰めするつもりになっていただいて、百円だしていただくわけなのです。こうして昨年は百万円近い金額が集まりました。その二割を靖国神社にお納めして、後は人件費、肥料、用意などに使いました。人件費というのは、私の給料、というか生活費。ハイ、やっと月に四万円ほどいただく身分になりました。
 つい先日のことですがね。
「靖国」、つまり国を平和に安らかにする、そうするにはどうすればいいか、そんなこと考えながら、じっと「靖国」という字を見ていたんです。そしたら、思わず笑ってしまいました。
「青を立てる」これが靖国なんですね。なんだ、自分のしてきたことでよかったのだ。笑いながら久しぶりに涙をこぼしました。」
昭和四四年七月一四日、志を立ててから、三〇年目の記念日の、老隊長の言葉です。そしてその年は、戦後に慰霊植樹を始めてから満十年を迎える年でもありました。

毎年訪れる八月十五日の終戦記念日には、多くの遺族が靖国の境内を埋めます。その人たちに、この銀杏を、桜の苗を残らず差し上げる。そして空になった苗田に、また今年の秋の実をまく。二〇年もすれば、それらはの苗は、立派な銀杏の木となって、日本中を平和な緑で飾る。
「もっとも私も74歳になりましたからね。その日まではとても生きてはいられないですが」」と老隊長は、にっこりと微笑んだそうです。

 昭和六〇年、緑の連隊長こと吉松喜三元陸軍大佐は、九〇歳で永眠されました。
靖国神社の境内の左側には、いまも参拝記念樹の頒布所があります。そこで配布されている苗木は、すべて靖国神社の境内の木の実を採って苗に育てたものです。
吉松隊長の心は、いまでもずっと息づいているのです。

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1019.html
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東海vs日本海…韓日ネットユーザー10万人が米ホワイトハウスのホームページで署名戦争

東海(トンヘ、日本名・日本海)の表記問題を議論する23日の国際水路機関(IHO)総会を控え、韓日ネットユーザーがホワイトハウスのホームページで激しい代理戦を繰り広げた.
http://japanese.joins.com/article/866/150866.html?servcode=A00§code=A10

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